序
遺伝性乳癌卵巣癌症候群(hereditary breast and ovarian cancer syndrome:HBOC)は,その存在自体がわが国では医療者および一般社会において,まだ十分に認識されていない病態である。日常診療の中で多くのHBOC に遭遇しているはずであるが,HBOC の存在に気がつかなければ医療者側からのアプローチは不可能であり,実際それでも通常のがん診療は実施可能である。しかし,がんの診療の際に,個々のがん治療だけではなく,さらに患者の将来を見据えたトータルなケアの機会を提供できれば本人にとってもその意義は大きい。
今回,われわれの厚生労働科学研究班(がん対策総合推進総合研究事業)では,わが国のHBOC 診療の基盤を整備すべく,全国登録システムの構築や一般社団法人日本遺伝性乳癌卵巣癌総合診療制度機構(JOHBOC)の設立などに取り組んだ。さらに,一般市民を対象としたHBOC の普及活動も行ってきた。その活動の一環として,現在のHBOC の最新の知見を総括して評価すること,わが国の医療制度の中で実施可能な対策を提案することを目的に本「診療の手引き」を作成した。また,本診療の手引きを作成するにあたり,既存の「乳癌診療ガイドライン2015 年版」や「卵巣がん治療ガイドライン2015 年版」との整合性には配慮したが,当初の原案でも大きな齟齬は認めなかった。
今後,わが国でもBRCA 遺伝学的検査の情報に基づいた,リスク低減手術やマネジメントが一般に普及すると思われる。さらにPARP 阻害薬の適応を決めるためにBRCA 遺伝学的検査が実施されるようになることも予想され,関係する診療科の一般医家にとってもHBOC への対応は避けて通れない時代になる。医療者は生殖細胞系列の遺伝子検査の特徴を十分に理解したうえで,BRCA 遺伝学的検査を担当することが望まれる。HBOC のみならず遺伝性腫瘍は生殖細胞系列の変異に起因するため,患者や家族のケアが単一臓器の診療科で完結できるわけではなく,複数の診療科や遺伝カウンセリング部門が連携してマネジメントを行う必要があることも大きな特徴である。
さらに今後,遺伝学的検査はマルチ遺伝子パネル検査などより多くの遺伝子,より発症リスクの低い遺伝子にまで適応が広がることも想定される。その前に,われわれは変異が見つかった場合の具体的な臨床上の対策について,実際の臨床でこれらの情報をどのように活用するかを併行して考えていかなければならない。
今回,多くの関係者の熱意や誠実な取り組みがなければ,本診療の手引きは完成できなかった。それはわが国のがんの遺伝医療そのものの歩みと類似しているように思われる。また,今回の診療の手引きでは多くのエビデンスが欧米を中心とした海外のデータである。これからはわが国の医療者がHBOC 診療の主人公となって,それぞれの経験やデータを持ち寄って,より良いわが国の診療の手引きを改訂・作成されることを切に希望する。
2017 年9 月
「わが国における遺伝性乳癌卵巣癌の臨床遺伝学的特徴の解明と
遺伝子情報を用いた生命予後の改善に関する研究」班
研究代表者 がん研有明病院 遺伝子診療部
新 井 正 美