本ガイドラインは,遺伝性乳癌卵巣癌(hereditary breast and ovarian cancer:HBOC)と診断された当事者(BRCA病的バリアント保持者)と医療者が,診断後の治療方法,サーベイランス方法についての協働意思決定を支援する目的で作成された。また,遺伝性疾患という特殊性から,当事者の血縁者に対する影響も少なくない。本ガイドラインでは情報を知ることの選択,遺伝学的検査を受けることの選択,検査結果が与える影響等に関し,当事者の血縁者との協働意思決定を支援することも目的としている。
本ガイドラインでは,HBOCを,BRCA1/2の生殖細胞系列の病的バリアントに起因する乳癌および卵巣癌をはじめとする,がんの易罹患性症候群として扱う(広義では,HBOCとして乳癌や卵巣癌の発症原因となる他の遺伝子を含む場合もある)。1994年に日本人研究者によってBRCA1が同定され,次いで翌年にBRCA2が同定され,病的バリアントがある場合のリスクは,70歳までに乳癌を発症する確率は56~87%,同じく卵巣癌では27~44%という高率であることもわかり,欧米ではその対象者に対する介入が診療の現場にも用いられるようになった。当初は日本人での浸透率は低いと思われていた時期もあったが,日本人対象の研究等からも欧米同様の浸透率がある可能性もわかってきた。また,2013年に米国の有名女優がBRCA1病的バリアントを有するゆえに,がんが発症するリスクを減らすために両側の乳房を切除したことが,「アンジェリーナエフェクト」と称されるほど世界的にインパクトを与え,HBOCが広く社会に知られるようになった。わが国でもこの影響もあり,特に乳癌診療の現場で,患者自ら,遺伝学的検査やリスク低減乳房全切除を希望する症例も増え始めた。さらには,2018年に乳癌患者に対してBRCA遺伝学的検査が,治療薬選択に必要なコンパニオン診断として保険適用となったことで,BRCA病的バリアントはがんの発症リスクとしてのみならず,治療効果予測因子として重要な位置付けをもつこととなった。2020年4月には卵巣癌患者および乳癌患者の一部に対してBRCA遺伝学的検査の保険適用が拡大され,さらには乳癌,卵巣癌患者でBRCA1/2病的バリアントを有するHBOC 症例にはリスク低減の手術,およびサーベイランスも保険適用となった。
さらには,HBOCのみではなく,遺伝医療は実臨床に活用されるようになり,生殖細胞系列遺伝子変異(germline mutation)のみではなく,体細胞系列遺伝子変異(somatic mutation)の解析も保険適用で行なわれるようになり,その両方向からの解析により,従来通りの原発部位を基準にした治療(乳癌,肺癌等)から,そのがんが発現している遺伝子に対する個別化治療が行われるようになった。そのような流れの中で,二次的所見として見つかるBRCA1/2病的バリアントに対しての対応も必要になっている。また特に,遺伝性疾患という特殊性から,HBOC はすでに発症している当事者のみでなく,その血縁者にも影響を及ぼすものであり,検査を行う時点から血縁者への影響等にも配慮する必要があり,遺伝カウンセリング体制も含めたチームでの診療体制が重要になってくる。
様々な選択において,当事者の価値観や個別性を尊重しつつ,当事者(BRCA病的バリアント保持者)と医療者がチームで関わりながら協働意思決定を行うことを支援するためのガイドラインは必要不可欠と思われる。
本ガイドライン作成にあたり,統括委員およびガイドライン作成委員で本領域に関する診療アルゴリズムを作成した。この診療アルゴリズムをもとに,重要臨床課題を選択した。すでに十分なエビデンスがあり,臨床上「既知のこと」とされている課題はBackground Question(BQ)とした。BQとしなかった臨床的課題に関しては,PICO形式のClinical Question(CQ)を作成し,文献検索を行った。文献検索の結果,CQとしてエビデンス総体の評価をするにはエビデンスが不十分と判断したCQはFuture research Question(FQ)とした。FQとして設定した課題に関しては,推奨の提示ではなく,「ステートメント」という形で見解を述べることにした。
CQ毎に検討すべきアウトカムを設定した。すべてのCQにおいて患者の価値観に関するアウトカムを含めた。
「遺伝性乳癌卵巣癌症候群(HBOC)診療の手引き2017年版」は,厚生労働科学研究(がん対策推進総合研究事業)の研究班である「わが国における遺伝性乳癌卵巣癌の臨床遺伝学的特徴の解明と遺伝子情報を用いた生命予後の改善に関する研究」(研究代表者 新井正美)の研究成果の1 つとして作成された。遺伝的側面を配慮した診療の普及,BRCA病的バリアントがコンパニオン診断として治療薬選択に用いられるようになった背景を受け,2017年版は医師だけではなく,遺伝性疾患に関わる多くの医療者に活用されるものとなった。一方で,作成方法はMinds「診療ガイドライン作成マニュアル2007」に準拠していたため,作成の厳密さに欠ける点があった。また推奨決定においては複数のアウトカムから益と害について評価するという方法を用いていなかった。
当初は研究班を主体としていた体制から,HBOC診療体制の整備拡充のため,日本医学会「遺伝子・健康・社会」検討委員会の助言,指導のもと,日本乳癌学会,日本産科婦人科学会,日本人類遺伝学会の3学会が中心となって,2016年8月に日本遺伝性乳癌卵巣癌総合診療制度機構(Japanese Organization of Hereditary Breast and Ovarian Cancer:JOHBOC)が発足した。そのもとに作られたガイドライン作成部会が,HBOC診療全般における科学的根拠に基づくガイドライン作成の主体となった。
遺伝性疾患に対する価値観は個別性が極めて高い。HBOC診療においては,発症予防の観点から健康な臓器の「予防摘出」を検討する場合もある。そのため,多様な価値観を考慮した当事者と医療者の協働意思決定が極めて重要である。2021年版を作成するにあたり,Minds「診療ガイドライン作成マニュアル2017」の作成方法を遵守し,BRCA病的バリアント保持者と医療者が多様な価値観を反映したうえで,意思決定をする際に活用できるようなガイドラインを目指す方針とした。
本ガイドラインは,BRCA病的バリアント保持者を対象としている。
BRCA病的バリアント保持者は,がん既発症者とがん未発症者に分かれる。本ガイドラインではがん既発症者とがん未発症者のいずれも対象としている。
またBRCA病的バリアント保持者の血縁者で,まだ遺伝学的検査を受けていない者に対する情報提供の役割も果たしている。
JOHBOCガイドライン作成部会委員長山内英子,統括委員青木大輔,新井正美,櫻井晃洋,中村清吾が,専門性や地域性を考慮し,委員を選任した。委員一覧は巻頭に掲載する。
本ガイドラインでは遺伝性疾患という極めて個々の価値観が異なる領域を取り扱っていることから,当事者の価値観や希望への配慮を重視した。また,当事者の価値観や希望はがん既発症,未発症でも異なることが予想された。そのため,推奨決定会議,推奨作成にはがん既発症の当事者2名,がん未発症の当事者1名にご参画いただき,多様な価値観を反映するよう心掛けた。また,すべてのCQで患者の価値観や希望に関する文献やアンケート調査について収集を試みた。推奨決定会議ではGRADEシステムのEvidence to Decision frameworks(以下,EtD frameworks)を用いて討議し,患者の価値観や意向を反映した。
HBOC診療に従事する遺伝専門医,産婦人科医,腫瘍内科医,消化器内科医,乳腺外科医,泌尿器科医,病理医,放射線科医等の医師および,HBOC診療に関わる看護師,遺伝カウンセラー,薬剤師,臨床心理士等の職種に活用していただきたい。また,本領域は家系全体に関わる疾患であるため,地域医療に従事する医療者にもぜひご一読いただき,遺伝性疾患の観点から地域医療の実践に役立てていただきたい。また行政機関で遺伝性疾患の制度整備に関わる方にもご一読いただき,HBOC診療の現状と課題についてご理解いただきたい。また本書は当事者と医療者が協働意思決定をする目的で作成されたガイドラインである。ぜひ,BRCA病的バリアントを保持していると診断を受けた当事者や血縁者の方にも活用していただき,医療者との協働意思決定に役立てていただきたい。
検索データベースおよび遡及検索年代はPubMed(1966年1月~2019年12月),医中誌(1977年1月~2019年12月)およびCochrane Library(Cochrane Database Systematic Review)を用いた。検索キーワードはBQ,CQ,FQ毎に設定した。文献検索は聖路加国際大学学術情報センターの河合富士美氏と,慶應義塾大学信濃町メディアセンターの中村亜日香氏,佐藤友里恵氏に行っていただいた。
システマティックレビュー(systematic review:SR)チーム内で以下の方法でエビデンスの選択を行った。
〈一次スクリーニング〉
1つのCQに対し2名のSR委員が独立して一次スクリーニングを行った。一次スクリーニングではタイトル,アブストラクトからCQに合っていないもの,Letterや総説などを除外した。2名の結果を照合し,二次スクリーニング用データセットを作成し,文献を取集した。
〈二次スクリーニング〉
二次スクリーニングも2名のSR委員が独立してフルテキストを読み,文献選択を行った。文献選択基準はいずれのCQにおいても,ランダム化比較試験,非ランダム化比較試験,コホート研究,症例対照研究,横断研究とした。二次スクリーニング後に残った文献以外に,重要な文献はハンドサーチで追加した。
各CQにおいて,エビデンス評価シートを用いてアウトカム毎のエビデンス評価を行った。アウトカム毎のエビデンス評価シートでは,バイアスリスク(選択バイアス,実行バイアス,検出バイアス,症例減少バイアス等),上昇要因,非直接性,非一貫性,不精確性,出版バイアスを評価した。アウトカム毎のエビデンス評価が終了後,エビデンス総体用のエビデンス評価シートを用いて,CQ全体のエビデンス総体評価を行った。エビデンス総体用の評価シートでは,各CQのアウトカムにバイアスリスク(選択バイアス,実行バイアス,検出バイアス,症例減少バイアス等),非一貫性,不精確性,出版バイアスの評価を行い,エビデンスの強さを決定した。
エビデンス総体を作成した後,定性的システマティックレビューを行い,CQ毎にSRレポートを作成した。
エビデンスの選択からSRレポート作成にかけての一連の作業はSR委員が独立して行い,ガイドライン作成委員は関与しなかった。
推奨決定会議はSR委員とは独立して,統括委員の医師5名,ガイドライン作成メンバーのうち各領域リーダーの医師3名が参加した。医師だけでなく,遺伝看護専門看護師1名,認定遺伝カウンセラー1名,当事者の立場の代表者3名にも加わっていただいた。
推奨決定会議では議論するCQ毎に,投票者の経済的利益相反(COI),学術的COIを開示し,COIのある委員は議論のみに参加し,投票は行わないこととした。
推奨作成にはGRADEシステムのEtD frameworksを用いた。EtD frameworksでは以下の9つの判断基準を用い,様々な視点からCQを包括的に評価することができる。
「基準7.費用対効果」に関しては,医療経済学的な費用対効果分析が行われているかどうかで判断した。ただし,本領域の費用対効果としてQALY等の費用対効果分析が有効かについては不確実性があると判断した。実際に介入の実施に影響を与えると思われる「当事者の自己負担」による影響は「基準8.容認性」の判断で議論をし,介入による「社会的負担」に関しては「基準9.実行可能性」の判断で議論をした。
推奨決定会議参加者は推奨決定会議前に各自で各CQをEtD frameworksを用いて評価し,編集委員が事前投票結果をまとめ,推奨決定会議の資料とした。推奨決定会議ではEtD frameworksの各判断毎に参加者全員議論を行い,再投票を行った。9つの基準に対する評価が終了後,以下の選択肢から「推奨のタイプ」に関する投票を行った。
70%以上の合意率が得られるまで議論を続け,最終的な「推奨のタイプ」を決定した。推奨決定会議の内容はガイドライン本文内に明示し,推奨決定までのプロセスの透明化を試みた。
推奨決定会議はすべてオンライン会議で行い,録画した会議内容は推奨文および解説文執筆の際の参考資料とした。
なお,本ガイドラインではGRADEシステムを利用し推奨を作成した。「条件付きの推奨」は他のガイドラインで使用されている「弱い推奨」と同等と考えていただきたい。
本ガイドラインが取り扱っているHBOCは遺伝性疾患であることから,個々の患者により多様な価値観があるため,それらへ配慮する形での提示方法をとった。診療ガイドラインの作成手法上,「利益(メリット)」や「不利益(デメリット)」のバランスから推奨を作成しているが,本領域のように患者個々において多様な価値観が想定される場合は,「利益(メリット)」や「不利益(デメリット)」の捉え方自体も多様である。そのため,様々な価値観を反映させるべく,推奨決定会議のメンバー,推奨提示方法を工夫した。また本領域に関するエビデンスは不確実な点も多く,実診療の場ではその不確実性を包含したうえで協働意思決定をする必要がある。そのため,推奨提示にあたっては重要なアウトカムに関する不確実性について,あえて言及するようにした。また,多くのCQが「条件付き推奨」となったことから,その「条件」を具体的に明示し,「推奨文」として併記することにした。
さらにガイドライン解説文では推奨決定会議の中で話し合われた議論内容,投票結果を記載した。最終的に決定した「推奨のタイプ」とは異なる意見に投票した委員の意見も記載し,多様な意見のうえで推奨が決定されたことを明示した。
外部評価委員と下記の関連学会から外部評価を受けた。
また,JOHBOCホームページでパブリックコメントを募集した。パブリックコメントの募集に際してはMinds のパブリックコメント募集支援を活用した。
外部評価で指摘された内容は,適宜,修正・加筆を行い本文へ反映した。対応内容に関しては,JOHBOC のホームページに対応表を掲載する(https://johboc.jp/)。
<外部評価にご協力いただいた関連学会>
診療ガイドラインに関するご意見は,常時JOHBOCにて受け付ける。定期改訂は概ね3年毎を予定しているが,その間に臨床的に重要と判断されたエビデンスが報告された場合は,その事項に関しシステマティックレビューを行い,推奨決定会議を開催し,推奨を決定する。またその場合は推奨や解説をJOHBOCのホームページで公開する。改訂手続きはJOHBOCが主体となって行う。
本ガイドラインで取り扱っているBRCA遺伝学的検査およびリスク低減手術(対側乳房切除術,卵巣卵管切除術),MRIによる乳房サーベイランスはがん既発症者に対しては保険適用となっているが,がん未発症者に対しては保険適用外となっており,その点は本ガイドライン適応にあたっての阻害要因となっている。
遺伝性腫瘍という観点では,がん未発症者に対する対応も既発症者と同様に重要であり,本ガイドラインでは保険適用外の診療に関しても推奨を作成し,解説している。がん未発症者に対する対応に関しては今後も更なる課題として取り組んでいく必要がある。
また包括的なHBOC診療を行える医療機関は限られており,すべての医療機関で本ガイドラインが推奨している検査,サーベイランス,医療行為を行えるわけではない。どの医療機関でどこまでのHBOC診療を受けられるかは,JOHBOCホームページの「認定施設一覧」から閲覧可能で参考になる。
本ガイドラインは刊行後,JOHBOC ホームページより自由に閲覧可能である。
また今後は,患者向けガイドラインの作成,資材の作成も検討している。これらの資料も,完成後はJOHBOCホームページに掲載予定である。
本ガイドラインに関しての要望は随時,JOHBOC事務局で受け付けを行い,次回改訂の際の参考にする。
本ガイドラインの作成に必要な費用は,JOHBOCおよび厚生労働科学研究費ゲノム情報を活用した遺伝性腫瘍の先制的医療提供体制の整備に関する研究班(20EA2401 研究代表者 櫻井晃洋)から提供されている。資金提供者は本ガイドラインの内容に影響を与えていない。
全ガイドライン作成メンバーの経済的COIを調査した。経済的COIはJOHBOCの規約に則り,JOHBOCの利益相反委員会によって審査した。学術的COIも含め,COIを有する委員は関連するCQでの投票を棄権する等の対応を行った。推奨決定会議で投票に関わったメンバーのCOIは,その有無にかかわらず,すべて巻末に掲載した。その他の委員に関しては,COIがある場合のみ掲載した。